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宮古島にはじめて唐イモ、甘藷(かんしょ)を伝えた
長真氏旨屋(ちょうしんうじ・しおく) の話

(1597年)



宮古島のイモの話   
   
宮古島には、「イモの主御嶽(ンーヌシュ・ウタキ)」という、イモの神様を祀(まつ)ったところがあります。 
「ンーヌ」 は宮古島の言葉で “イモの” のこと、「シュ」 とは“主(ぬし)や神様” のこと、「ウタキ」 は “神社” のような場所のことです。 

なぜ、宮古島にイモの神様の神社があるのでしょうか?

それは、宮古島にイモが伝えられたあとは、飢饉(ききん)の年でもイモを食べることができたので、命を救われる島民が多くなったからです。

今でも毎年台風がおそってきますが、宮古島はいつの時代でも台風や、旱魃(かんばつ)といって長い期間雨が降らず、作物が全て枯(か)れてしまうなどの天災にみまわれました。
そのため 食物を手に入れることができず、多くの島民が死んでしまうことが何度もありました。

420年ほど前の話です。 宮古島の村番所の役人をしていた、長真氏旨屋(ちょうしんうじ・しおく)という人がいました。 
 
1594年、琉球王朝への報告のために首里へ仕事で行った帰りに旨屋(しおく)と2人
の宮古島の人たちが乗った船は強い風に流されて、宮古島に着くことができず、漂流(ひょうりゅう)して、中国の福建省(ふっけんしょう)にある福州(ふっちゅん)というところに着きました。

福州に滞在中、旨屋(しおく)は唐イモという食べ物があることを知りました。 そして、「この唐イモを宮古島でも育てることができると、島の人々にとって大きな助けになる」 と考えました。 


それから3年の月日が流れ、1597年、長真氏旨屋(ちょうしんうじ・しおく)はようやく宮古島に戻ることができました。 宮古島に帰る時に中国から唐イモ(今のさつまいも)の茎(くき)を持ちかえり、宮古島での栽培が始まりました。 (*解説1.)

これとは別に、沖縄本島の野国総官(のぐに・そうかん)が中国から唐イモの鉢植えを持ち帰り、栽培を始めたのが1605年だったので、宮古島ではそれより7〜8年前から唐イモの栽培が始められていたのです。

野国総官(のぐに・そうかん)の持ち帰った唐イモは、その後18世紀に入ってから九州の薩摩(さつま)、今の鹿児島県に伝えられたので、日本全国で薩摩のイモ、“さつまいも”と呼ばれるようになりました。 (*解説 2.)

さて、旨屋(しおく)が中国から持ち帰った唐イモはその後も宮古島で大切に育てられました。
イモだけでなく、茎や葉も食べることができる唐イモは、台風の風にも負けず、痩(や)せた土地や雨の少ない年でも収穫することができました。

やがて、唐イモは宮古島の人たちにとって欠かすことのできない作物となり、やがて島の主食(しゅしょく)となっていきました。 また、余った茎や葉で家畜を育てることもできたので、多くの家畜を持つことができるようになりました。
 
このように、宮古島の人々の命をつなぐ大切な食料となった唐イモに感謝を込めて、「イモの主御嶽(ンーヌシュ・ウタキ)」 ができたのです。
またこのウタキは、命がけで唐イモを宮古島に持ち帰ってくれた旨屋(しおく)への感謝の思いを忘れないためでした。

じつは、旨屋(しおく)は3回も海で遭難(そうなん)するという、まるで探検家(たんけんか)のような生涯(しょうがい)でした。


1回目は、1594年沖縄から宮古島に戻る時、船は漂流して中国の福州(ふっちゅん)に流れ着きました。 宮古島キッズネット
 
2回目は、1597年に福州から宮古島に戻る時でした。 またも悪天候で遭難し、今度は九州に漂着したのです。 ですから、唐イモも旨屋(しおく)と一緒に九州経由で宮古島に運ばれました。
 
3回目の遭難は1642年でした。 やはり沖縄本島、首里への出張の帰りに宮古島に向った船が漂流し、八重山に漂着しました。
そのとき旨屋(しおく)は病気になって八重山で死亡し、宮古島に戻ることができませんでした。
 
 
 

旨屋(しおく)は、1632年に昇進(しょうしん)して、宮古島の役人の頭(かしら)である、砂川親雲上旨屋(うるかぺーちん・しおく)と呼ばれるようになりました。 宮古島の人たちは旨屋(しおく)の死後、尊敬をこめて「イモの神様」とも呼ぶようになり、「イモの主御嶽(ンーヌシュ・ウタキ)」に祀(まつ)られたのです。

以前は毎年、この「イモの主御嶽(ンーヌシュ・ウタキ)」に、その年はじめて収穫されたイモをお供えし、感謝のお祭りが行われていました。

しかし、 1950年代になると食糧事情がよくなり、イモを栽培する農家も少なくなって、「イモの主御嶽(ンーヌシュ・ウタキ)」での祭事も行われなくなりました。

長真氏旨屋(ちょうしんうじ・しおく)が伝えた唐イモは、宮古島の人々の命をつないでくれた、歴史上忘れることのできない大切な役割をはたしてくれました。

「イモの主御嶽(ンーヌシュ・ウタキ)」は、宮古島市内の西仲宗根にあります。


*解説 1.: 
旨屋(しおく)が宮古島に持ち帰ったのは唐イモそのものではなく、農家がイモの栽培用に使う 「芋(いも)んつら」といわれる唐イモの茎(くき)の部分でした。

*解説2.: 
日本のさつまいもは、宮古島から沖縄本島に伝えられ日本全国に広まったとの説もあるようです。
宮古島キッズネットでは、記録上確認できる範囲内の状況から長真氏旨屋(ちょうしんうじ・しおく)が伝えた唐イモはあくまでも宮古島地域での栽培にとどまり、日本全国に広まったさつまいものルーツは 1605年に野国総官(のぐに・そうかん)の持ち帰った沖縄本島の唐イモにある、との立場でこの物語をまとめています。

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