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Miyako Island
 
 
 
宮古島の史跡
 
   
1. 仲宗根豊見親(なかそねゆみ)の墓   宮古島市 西仲宗根
  “豊見親(とゆみ)”とは、 「高名な領主(りょうしゅ)」 という意味です。
“仲宗根豊見親”は、15世紀から16世紀初めに宮古島平良を拠点(きょてん)として活躍した豪族(ごうぞく)です。 

首里王が、八重山のオヤケアカハチの乱をおさめるために軍を送った時には、仲宗根豊見親は先頭に立って戦ったといわれています。
また、宮古島では井戸や道路、橋などの開削(かいさく)といわれる開発を進め、島を暮しやすい場所に変えました。

* オヤケアカハチ 石垣島の大浜村(石垣市大浜)を基地とした、15世紀の豪族。 仲宗根豊見親と対立し、1500年には、首里の王が派遣(はけん)した征伐軍(せいばつぐん)3,000人との戦いで負けました。

* 開削(かいさく)
 山野や大地などを切り開いて、水路や道路などを通すこと。
 
  Photo by K. Miura
2. 知利真良豊見親(ちりまらゆみ)の墓  宮古島市 西仲宗根 
  仲宗根豊見親(なかそねゆみの三男。 
1500年に、首里の中山王の軍を指揮(しき)した父に従って、八重山のオヤケアカハチ征討軍(せいばつぐん)に参加しました。  
その後、兄の祭金が4年間勤務した後をついで八重山の頭職(かしらしょく)となり、そこで亡くなったと伝えられています。
 
  Photo by K. Miura
3. アトンマ墓  宮古島市 西仲宗根 
  アトンマとは、宮古島の方言で後妻 (ごさい=最初の妻が死亡して、そのあと妻となった人) のことです。  
平良の頭職(かしらしょく)を務めていた忠導氏は、16世紀から18世紀ころにかけて、宮古の二大勢力(せいりょく)のひとつといわれるほど大きな勢力を誇(ほこ)っていました。 その忠導氏一族が18世紀頃、継室(アトンマ)が死亡した時に葬(まつ)ったことから、アトンマ墓と呼ばれています。
墓の様式は、岩盤(がんばん)と切石を組み合わせた 「彫込み囲い墓」 という形式です。
 
    Photo by K. Miura
4. 人頭税石(じんとうぜいせき)  宮古島市 荷川取
  1609年に薩摩(さつま=今の鹿児島県)が、琉球を侵略(しんりゃく)しました。 
そのため、貿易や黒砂糖の利益を薩摩にうばわれた琉球王府は財政(ざいせい)に困り、新しい収入を得るために 1637年から宮古島と八重山に住む人から、沖縄の歴史の中でもっとも厳(きび)しい人頭税という税金を取ることにしました。

男女とも 15歳から50歳までの人は、全員この税金を払わなければなりませんでした。 男は粟(あわ)などの穀類(こくるい)、女は宮古上布(じょうふ)を納(おさ)めました。
人頭税石は高さが1.43メートルありますが、島民の身長が この石の高さになると、人頭税を払いはじめたともいわれています。
この税は266年間も続き、明治36年(1903年)になって、ようやく廃止(はいし)されました。

詳しくは、こちらをお読みください。
     
5. 張水御獄(はりみずうたき)  宮古島市 西里 
  御獄(うたき)とは、琉球王国(第二尚氏王朝)がさだめた琉球信仰のシンボルといえる場所です。 

張水御獄は宮古島で一番大きな御獄(うたき)で、宮古島創世(そうせい=島や国が作られる)の時、男の神様 恋角(くいつぬ)と女の神様 恋玉(くいたま)がここに降り立ち、できた子どもが宮古島の祖先(そせん)になったという神話が伝えられています。
    Photo by K. Miura
6. 博愛記念碑(はくあいきねんひ)  宮古島市 西里 
  1873年7月(明治6年)、ドイツ商船(ロベルトソン号)が中国からオーストラリアへ行く途中台風にあい、上野の宮国村の沖合で座礁(ざしょう)しました。 
村の人々は荒(あ)れる海から乗組員8人を救助し、その後島で34日間大切にもてなし、船を与えて帰国させました。
そのことを知ったドイツ皇帝(こうてい)ヴィルヘルム一世は、宮古島の人たちの勇気とまごころをたたえて、1876年(明治9年) 3月、軍艦(ぐんかん) チクローブ号を派遣 (はけん=つかわす)して、平良港の見える丘に記念碑を建てました。

詳しくは、こちらをお読みください。
 

  Photo by K. Miura
7. 久松五勇士顕彰碑(ひさまつごゆうしけんしょうひ)  宮古島市 久貝
 

日露戦争(1905年=明治38年)の時、宮古島の近海をロシアのバルチック艦隊(かんたい)が北上している、という情報が宮古島の役場に入りました。 
そのころ宮古島には、電信施設(電話や電報を送る施設)がありませんでした。 
そこで久松の漁夫 5人が選ばれ、電信施設のあった石垣島までくり舟をこいで行くことになりました。

5人の漁夫は小さなくり舟を15時間こぎ続け、上陸してからは山道を30キロ歩いて、石垣島の郵便局にたどりつきました。 そして日本軍の大将、東郷平八郎の連合艦隊(れんごうかんたい)に、ロシア艦隊の情報を伝えることに成功しました。
この5人の漁夫の健闘(けんとう) をたたえて、1966年(昭和41年) に “久松五勇士 顕彰碑(けんしょうひ)” が建てられました。

詳しくは、こちらをお読みください。

 
  Photo by K. Miura
8. 大和井(やまとがー)  宮古島市 西仲宗根
  さんご礁が隆起(りゅうき)してできた宮古島には、川がありません。 
島には、地下にたまった雨水が湧(わ)きだすところがいくつもあり、そこは 「ガー」 とよばれ、住民の大切な生活用水として利用されてきました。 

大和井(やまとがー)は、宮古島市内にある湧き水の出てくる場所です。 
大和井は、1720年に掘(ほ)られたという記録があります。 大和井は、細工(さいく)をした石を使った井戸であることや、門があったとみられることなど、ほかの井戸とは作りがちがうことから、ここは一般の市民のための井戸ではなく、首里王府や薩摩藩(さつまはん)から送られてきた役人専用の井戸だったようです。
   
9. 高腰城跡(たかうすじょうせき)  城辺 比嘉
  高腰城跡は、城辺(ぐすくべ) 比嘉部落の北にある13〜14世紀頃の城あとです。 
ここの城主は、高腰按司 (たかうすあんじ) という人でした。 城は宮古島の中でも高い場所にあったので、攻(せ)められても崩(くず)れにくい城といわれていました。 
でも、欲に目がくらんだ味方(みかた)の裏切りによって、与那覇原軍に滅ぼされました。

城の北東には、高腰按司が使用したといわれる泉(湧水=わきみず) があり、南には高腰按司を祀(まつ)ったと伝えられる高腰御嶽(たかうすうたき)があります。
   
10. 野城泉(ぬぐすくがー)  城辺 福里
  城辺の北東の海岸に沿って、標高約65mの琉球石灰岩丘陵地帯(きゅうりょうちたい)があります。 
野城遺跡(いせき)はこの丘陵にありますが、野城泉(ぬぐすくがー)は、この丘陵の裾野(すその)にある “降り井”といわれる井戸です。

降り井とは、水をくむために石の階段を降りていく井戸のことです。 地下の湧(わ)き水の通り道まで掘(ほ)りすすみ、石の階段を作り、人々は階段を上り下りして水を汲(く)んでいました。 
野城泉は昔、野城按司(ぬぐすくあんじ)の一族の人々が飲料水として利用していました。 野城泉は現在も水量が豊富なので、畑のかんがい用水として利用されています。
   
11. 野原岳の霊石(のばるだけのれいせき)  上野 野原岳
  大嶽(おおづく)城の城主だった大嶽按司(あじ)が、城の守護神としてこの霊石(れいせき=石を祈りの対象としたもの)を作らせ、祀(まつ)ったといわれています。 
この霊石は珊瑚石灰岩(さんごせっかいがん)で、大きさは直径 110p、高さ 135pの円柱形をしています。 
このような霊石信仰は、沖縄の他の地域でもみられるそうです。
   
12. 喜左真御獄(きさまうたき)  下地 川満
  喜佐真御嶽は、真種子若按司(またねわかあじ)を祀(まつ)ったもので、 「宮古島御嶽由来記」(1707年) や 「琉球国由来記」(1713年) などの歴史書にも記録された、歴史的にも価値のある御嶽(うたき)です。

以前は石積みの壁にかやぶきの屋根でしたが、1951年(昭和27年)に現在のコンクリート作りになりました。 川満の神役による籠り御願(こもりうがん)が、旧暦2月と11月に行われます。 また、旧暦2月・10月の世乞い(ユークイ)には、この御嶽(うたき)でアーグを歌います。
*世乞い(ユークイ):宮古島の代表的な豊年祈願の伝統行事
   
13. 池田矼(いけだはし)  下地 上地ツボヤ
  矼(こう=石で作られた橋のことをいう)とも読まれる、珍しい漢字であらわされる池田矼。 下地の国道わきで、沖縄製糖工場の近くにあります。 
この橋は、約280年前にこの道が平良から久松、川満を経て洲鎌、上地、与那覇へ通ずる主要道路だったことから、丈夫な橋を作ったものと見られています。
琉球石灰岩(せっかいがん)を加工してつくられたたアーチ型の石橋は、いまでも立派に橋の役割をはたしています。
  Photo by K. Miura
14. 長間家(すむりゃー)ミャーカ   来間島(くりまじま)
  スムリャーミャ−カは、 “長間家のお墓”という意味です。 
来間島にあるこの古いお墓は、墓のなかにあった副葬品 (ふくそうひん=死者とともに墓におさめられた、貴金属や生前使っていた道具)などから、15世紀ごろ作られたものと思われています。

横9m、縦6.5m、高さ2.3mと、とても大きなつくりで、お墓の中央には一枚の珊瑚石灰岩(さんごせっかいがん)の平板石がのせられていて、3つの部屋に分かれています。
   
15. 野加那泉(ぬかながー)  城辺 比嘉
  野加那泉は、比嘉部落の西側およそ 500mほど離れた所にある小さな湧水(わきみず)です。 
この泉は、琉球石灰岩(せっかいがん)の切石で積まれた直径約5m、幅約4m の楕円形(だえんけい)を半分に切ったような形をしています。
この泉の北側は飲料水、南側は生活用水及び家畜用に利用されてきました。 またここの水は、水田や畑にも使われていました。
この地域には、昔ヌカナガーの水を利用して栄えた、イイ原里という集落がありました。
   
16. 友利のあま井(ともりのあまがー)  城辺 砂川
  友利のあま井は、砂川地区と友利地区の境界(きょうかい)付近で、友利元島遺跡の西側にあります。 
自然の洞窟(どうくつ)を水が湧(わ)き出す場所まで降りていきますが、滞水層(たいすいそう)といわれる水の湧き出しているところまでは、約20mあります。 
湧き水の規模としては大きく、水量も豊かです。

1965年(昭和40年)にこの地域に水道ができるまでは、飲料水をはじめ、生活のための貴重な水源でした。 ここでも水を運ぶのは、女性や子どもたちの仕事でした。 
重い水を担(かつ)いで、石段を登るときに手の支えとしていた場所が、岩肌(いわはだ)のくぼみとなって残っています。
   
17. 上比屋山遺跡(ういぴゃーやまいせき) 城辺 砂川 
 

城辺(ぐすくべ)の砂川地区にある琉球石灰岩(せっかいがん)台地に広がる、14〜15世紀頃の集落遺跡(いせき)です。 
内部には数ヶ所の拝所(ウガンジュ)と、南端に「トゥンカイフツイス」と呼ばれる遺構 (昔の建物などの遺跡)や遠見台があります。

遺跡からは大量の地元産土器のほか、中国製の陶磁器(とうじき)や鉄製品が出土しています。 近くには新里元島、砂川元島、友利元島などの集落跡があり、この地域にはかつて多くの島民が暮らしていました。
上比屋山には、ウイピャー、キサマ、マイヌヤーなどの拝所(はいじょ)や、ムトゥ(お香をあげるところ)を中心として山全体が神聖化され、地元の人々の信仰の対象として大切に守られてきました。

Photo by K. Miura 
   
18. 上比屋ムトゥの祭場 (ういぴゃーむとぅのさいじょう)  城辺 砂川
  上比屋山遺跡の中にある上比屋ムトゥの祭場 (ういぴゃーむとぅのさいじょう)は、マイウイピャー、クスウイピャー、ウイウスの3つの建物があります。 それぞれがムトウ(拝みをするところ)になっており、沖縄県指定民族文化財です。
宮古島における祀(まつり)がどのようにとり行われていたかを知る、大切な場所です。
また、これらの祀(まつり) は歴史的にも古く、「雍正旧記(ようぜいきゅうき)」(1727年)や 「宮古島記事仕次(みやこじまきじしつぎ)」(1748年) という歴史書に記録されています。 詳しくは、1970年代以降多くの歴史や民俗学の研究者がウイピャーについて研究し、報告書の形で発表していますので、図書館などで読むことが出来ます。
Photo by K. Miura 
   
19. マムヤの墓  城辺 東平安名崎(ひがしへんなざき)
  昔、大和(やまと)から落ちのびて東平安名崎近くの保良(ぼら)の村に住んでいた、機織(はたおり)のじょうずなマムヤと呼ばれた女性のお墓です。 
マムヤはとても美しかったので、たくさんの人がお嫁さんにしたいと思っていました。
 
その人たちに見つからないように、洞窟(どうくつ)の中に隠れて住んでいましたが、当時宮古島をおさめていた崎山の坊という人に見つかり、その人の妻になりました。 
しかしその人にはすでに妻がいて、マムヤにつらくあたり、将来を悲観(ひかん)したマムヤは、東平安名崎から身を投げて亡くなったと言われています。

詳しくは 「宮古島の伝説」で読むことができます。
   
20. サバ沖井戸(さばうつがー)  伊良部島 前里添
  前里添集落近くの断崖(だんがい)の下にあるサバ沖井戸は、畑仕事をしていた若者が偶然発見したと言われています。 

1966年(昭和41年)に水道が設置されるまでの約 230年間、佐良浜地区の人たちにとって貴重な水源(すいげん)でした。 

水をくむためには、130段近い階段を上り下りしなければならず、1日に数回行われる水くみは、女性や子どもたちにとって大変な重労働でした。
   
21. 宮古遠見台(みやことうみだい)  多良間村 仲筋
  遠見台というのは、高い所から見はりをする場所のことで、昔はどの島にも作られていたようです。 
琉球王朝時代には、島に出入りする船の見張り場所として利用しました。
   
22. 八重山遠見台(やえやまとうみだい)  多良間村 仲筋
  多良間島の一番高い場所に、八重山遠見台があります。 人頭税(じんとうぜい)が行われていた時代に、税金を取りにくる役人の乗った船の見張りや、敵(てき)を見張るために作られたといわれています。
(多良間島観光協会HPより)
   
23. 塩川のフクギ並木(なみき)  多良間村 塩川
  多良間島には島のいたる所にフクギがあり、フクギの里とよばれています。 
オトギリソウ科のフクギは、4mから7mまで育ち、昔から作物や家を台風から守る防風林(ぼうふうりん)として、また建築材として、島の人々の暮らしに大事な役割をになってきました。 
フクギ並木は、多良間島の塩川の集落近くにあり、650mも続いています。


(多良間島観光協会HPより)
   
24. 寺山遺跡(てらやまいせき)  多良間村 塩川
  1697年から1711年までの14年間、奥武山龍洞寺(おうのやまりゅうどうじ)の住職であった心海上人(しんかいしょうにん)という人が、多良間島で暮らし村人たちに教えを説いた場所だといわれています。
「とんばら」と呼ばれる岩の上に碑(ひ)があり、島民を天災から救うための経塚(きょうづか)を建立したとしるされています。  *経塚:経典(きょうてん)が納められた遺跡
 
25. ネフスキー顕彰碑とネフスキー通り  宮古島市 西仲宗根
  平良港の近くに、長さ 90mくらいの石畳の坂道があります。 これがネフスキー通りです。 ネフスキー通りを登っていくと、通りの終わりにネフスキー顕彰碑(けんしょうひ)があります。
顕彰碑とは、人々に役立つことをした人の名前を石に彫って、未来の人々に伝えるための記念碑(きねんひ)です。
ネフスキーは1892年生まれのロシア人で、言語(げんご)学者で民俗(みんぞく)学者です。 ネフスキーは日本語の研究のために日本を訪れていた1920年に、東京で宮古島出身の稲村賢敷(いなむら・けんぶ)さんに出会い、宮古島の方言と風習についてたくさん聞くことができました。
稲村さんの話をきいて、とても宮古島に興味を持ったネフスキーは、1923年、1926年、1928年の3回宮古島を訪れて島の各地を回り、宮古島の方言と風習について調査をおこない、とても多くの資料をまとめました。

2002年、当時の平良市がネフスキーの偉大な研究を称えるためにネフスキーが通ったと言われる石畳(いしだたみ)の道を 「ネフスキー通り」 と名付け、通りの上には 「宮古研究の先駆者(せんくしゃ) ニコライ・A・ネフスキー之碑」 を建てました。

ネフスキーの人生と偉大な研究は、「ネフスキー物語」 を読んでください。 
小学生は、ご家族のみなさんに読んでもらってください。

 
  Photo by K. Miura
   
26.

モリカガー(盛加川)宮古島市 東仲宗根

 

ヤマトガーが役人のための水汲み場だったのにくらべ、市民の水汲み場として使われていたのがモリカガーです。

モリカガーは、洞井と分類されているように、大きく開いた洞窟のように見えます。

人々は、壁に沿って半周するように13メートルほど降りていき、底にたまる水を汲んで飲料や生活用水に使っていました。

右上の図は、1920年(大正9年)に当時の内務省が行った 「史跡名勝天然記念調査」 の際に記録されたモリカガーのスケッチです。(赤字部分は宮古島キッズネットのメートル表示)

1996年に行われた調査では、ホラアナマメシジミ、オキナワミズゴマツボ、アシナガヌマエビ、サキシマヌマエビの生息が確認されています。
 
 
参考資料
1. 史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第10号 内務省編 (1920)
2. 沖縄写真帖. 第1輯 図書 坂口総一郎著 (1925)
3. 独逸国商船遭難救助並同国皇帝建碑顛末書 沖縄県宮古郡教育部会編 (1935)
4. 平良町町誌 沖縄県宮古郡平良町 (1934)
5. 宮古の研究 比嘉重徳著 (1918)
6. 宮古島旧史 西村捨三著 (1884)
7. 旧記 桑江克英, 屋良朝陳 訓註 琉球王代文献頒布会 (1939)
8. 琉球聖典おもろさうし選釈 : オモロに現はれたる古琉球の文化 伊波普猷著 (1924)
9. The First Taint of Civilization: A History of the Caroline and Marshalls
10. Grundriss der Japanologie
11. Mitteilungen der Geographischen Gesellschaft in Hamburg, Volume 9
12. Министерство иностранных дел, Китайская Республика (Тайвань),
  Ministry of Foreign Affairs, Republic of China (Taiwan)

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