宮古島のヒーロー (4)
島の暮らしを文学性の高い 「あやぐ」 にこめて歌い継いだ宮古島の女性たち
 
宮古島のあやぐ

厳しい生活環境や、つらい労働をあやぐにこめて歌い継いできた女性たちが、今回の宮古島のヒーローです。
これらの背景を説明するのに一番わかりやすい参考資料として、民俗学者 伊波普猷の 「八重山の乙女のあやぐ」 を紹介します。
 
 
伊波普猷の 「琉球聖典 おもしろさうし選択: オモロに現われたる古代琉球の文化」 宮古島のあやご

以下は1924年(大正13年)に出版された、伊波普猷(いはふゆう)の 「琉球聖典 おもしろさうし選択: オモロに現われたる古代琉球の文化」 宮古島のあやご 1章 より抜粋し、児童にも理解しやすい表現に再編集したものです。
ここで紹介されている八重山の乙女は、宮古民謡で今も良く知られている 「鬼虎ぬ娘のあやぐ」 で歌われている女性です。 ただし、この女性が本当に与那国の首長鬼虎の娘だったかについて決定する歴史的根拠は無いようです。

 
八重山の乙女(ハガナー)のあやぐ

宮古島の白明井(スサカガー)に行ったことがありますか? ここは宮古島の水くみ場の中でも、登り降りがとても大変な場所です。 そして、この白明井の名前を聞くと、水汲み場の事をあやぐに歌った八重山から宮古島に連れてこられた女性の事を思い出します。

これだけ有名なアヤグで300年以上も歌い継がれたのに、この女性の名前はわかりません。 八重山から連れて来られたので、八重山の乙女(ハガナー)と呼ばれるこの若い女性は、今から500年以上前の1500年に八重山のオヤケアカハチ征伐に参加した宮古島の仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)の跡取りだった仲屋金盛豊見親(なかやかなもりとぅゆみゃ)が勝利の凱旋品(がいせんひん)として宮古島に連れて来たのです。

この女性は波照間島の生まれで、この年までとても大切に育てられていたことが歌の内容から読み取れます。 しかし、捕虜となったこの女性の宮古島での生活は、一転してとても厳しくつらいものとなりました。 どのような日々であったのかは、以下の歌詞から知ることが出来ます。


 
もと歌 歌の内容は、おおよそ次のようなものです
   

耳すきかや漲水
必す思たおやさけ
中屋主が美御ぼげん
やこめ親のみおぼげん
漲水もあは見て
おやさけもあは見て
白明井ど通ひおら
寄合井ど通ひおら
白明井やむまやる
寄合井やあばやる
すともでの井おり
明る日のかはおり
根間座や大海ど
外間座や海中ど
根間座を越えんな
外間座を越えんな
あばあげばつはふむ
いちよふけばなみだ
あが八重山をりんな
下八重山をよんな
雨にやちよもめやめぬ
露にやちよもめやめぬ
あたりこどやたそが
かなさこどやたそが
井んかいそかりおり
水汲んがそかりおり
豊見親のみおぼげん
やこの親のみおぼげん
戻せふいる豊見親
帰せふいるやこめ親

かねてより噂に聞いていた漲水の港
かねてより心に描いていたおやさけの泊地
中屋の大将のおかげで
尊き大将のおかげで
漲水の港を見ることが出来ました
おやさけの泊地も見ることが出来ました
白明井に通い続けています
寄合井に通い続けています
白明井戸は深い穴の底にあります
寄合井に降りる断崖は恐ろしいところです
わたしは、毎朝早くからそこにいきます
夜が明けるとすぐに井戸に向かいます
井戸に向かう根間座の道は青い海原を歩いているようです
外間座の道は和田つ海のようなところです
根間座の道を通っていると
外間座の道を通っていると
空を見ても泣きたくなります
うつむくと涙がこぼれます
ああ、わたしが八重山にいたころには
父母のいる波照間にいたころには
雨にさえ濡れることのない生活でした
露にさえ濡れないように守られていました
そのように大切に育てられていたのに
そのように愛されていたのに
いまでは井戸に通い続けて
朝となく、夜となく水を汲み続けなくてはいけないとは
名高き大将のお情けで
貴き大将のお情けで
どうか私を戻してください豊見親さま
どうか私を帰してください大将さま

   

ここまでが、八重山のハガナーが歌ったといわれるあやぐです。
 
その後、宮古島の多くの女性があやぐに新しい物語を付け足し歌い継いできました
八重山のハガナーのあやぐに関しては、宮古島の女性たちがもと歌に新たな物語を付け足して歌ったものもありました。
1908年(明治41年)の春、宮古島に行き中学時代の友人富盛寛卓より教えられた八重山の女性について歌ったあやぐは、富盛君の妻が歌ったものを書き起こしたものです。

驚いたことに、八重山ハガナーが歌ったといわれたあやぐの詩節は30節であったのに、富盛君の妻が歌った詩節は57節まであります。 このあやぐには、仲屋金盛豊見親(なかやかなもりとぅゆみゃ)によって宮古島に連れてこられた後、何度 「八重山に帰してください」 とお願いしても許されず、絶望的になって袖山で死ぬまでの悲しい生涯が歌い綴られています。 
「鬼虎ぬ娘のあやぐ」 は、民謡の広場で紹介しています。

「本当はもっと続いていたけれど、あとは思い出せない」 ということでしたが、それにしても宮古島の女性たちがこれほど長い歌を暗記し、歌い継いできたことが驚きです。

このあやぐの特徴は、2つの句を意味上対応させる対句表現という詩や漢文の要素がとても多く含まれていることです。 その理由がなぜなのかについてはまだわかっていません。 また、その句調が万葉のそれに似かよっているのも注目すべき点でしょう。

あやぐは、先島の強い太陽、鮮やかな草の色、花の香り、潮の香りに育まれた豊かな人間性と自然な発想のままに、言葉に一切の装飾をすることのない歌詞が人々の心に深くしみ、沖縄民謡の中でもとりわけ感情豊かな民謡となって歌い継がれました。
 
どのようにしてあやぐは発展してきたのでしようか?

ここまでが、伊波普猷の 「琉球聖典 おもしろさうし選択: オモロに現われたる古代琉球の文化」で紹介された宮古島のあやぐについての概要です。

神事を司(つかさど)る女性たちによって伝えられた 「神あやぐ」 と言われる一般の人には歌われることのない宗教上のあやぐを別として、宮古島のあやぐにはいくつかの特徴があります。 宮古島では500~600年前にすでに男女共に多くの人が
あやぐの基となる詩を作り、自分たちの境遇や事件、出来事を盛り込んだ史詩として歌い継いできました。

また、伝承者や歌い継いできた人によって歌詞が変えられたり、新たなストーリーが追加されたりすることでその時代に生きていた人々がより受け入れやすい物語展開となり、時代が変わっても多くの人に共感してもらえたのです。 私たちが今回の調査で見つけた一番長いあやぐは118節までありましたが、最初に歌われた内容に物語が付け足されだんだんと長くなることもよくあったようです。

宮古島には、近隣の島々を征服した時の話を詩人たちが盛んに勇ましく歌い上げた男性のあやぐもありますが、一方で女性の境遇や労働など厳しい先島の現実を歌う女性たちのあやぐは、方言がまだ方言として完全な形をとどめていた時代にこそ可能だった、情景、情感を聞く者の心に深く浸み込ませる歌詞と歌い口調で、他の地方の民謡ではみられない素晴らしい史詩、抒情詩を持つあやぐとして発展してきたのです。

 
まとめ:

伊波普猷をはじめ柳田国男、ニコライ・ネフスキーなどの民俗学者、言語学者によって宮古島のあやぐの優れた文学性や、ほかの地ではあまり見ることのできない史詩として発展してきた理由などの研究がはじまりました。 今回紹介した 「八重山の乙女のあやぐ」 も、柳田国男は1925年(大正14年)の11月に、「仲屋金盛豊見親捕え参り候女のアヤゴ(なかやかなもりとぅゆみゃがとらえてきた女のあやぐ)」 という長いタイトルで紹介しています。

宮古島のあやぐには、いまでも多くの研究者を引き付ける魅力があります。

編集メモ 1: 宮古島に伝わる歌謡(民謡、はやり歌、わらべ歌)を 「あやぐ」 といいます。 また、綾言という言葉を使って 「あやご」 と呼ばれることもあります。
編集メモ 2:
 
豊見親の読み方についてのふりがなは、伊波普猷は "とよみおや" としていますが、宮古島キッズネットでは他の歴史関連ページと表記を統一させ " とぅゆみゃ" としています。
編集メモ 3:

万葉時代の言葉は、沖縄本島の一部や宮古島、石垣島、与那国島の方言にも残っているようですが、どのようにして伝わったのかに関し宮古島キッズネットは、当時先島地域と奈良や京都との交流があったからではなく、Marija Gimbutas "クルガン仮説(Kurugan hypotesis)" の説得方式に似た状況で伝わったと考えます。
つまり、「万葉時代の言葉や語法がじわりじわりと隣接する地域へと伝わり続け、数百年後には遥か遠くに離れた宮古島や先島地域の方言にも万葉の言葉が交わり使われるようになった。 しかし、当時の人々はその語源がどこにあるのかについては誰も知らなかった 。 また、本土の経由地には新たな文化的伝播の波が次々と押しかけたので万葉の時代のものは消滅していったが、先島では地理的要因から伝播頻度が低く、他の時代の文化的受容総量が少ないので残る可能性が高まった (
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なお、「宮古島の方言には、上代(飛鳥時代から奈良時代)といわれる万葉の言葉が残っている」 ことに関して、今でも多くの研究者が調査を続けていますので、図書館やネット上で読むことが出来ます。

編集メモ 4:

ところで、八重山ハガナーの運命を悲劇に追いやった仲屋金盛豊見親はその後どうなったのか、知ってますか? 
じつは、仲屋金盛豊見親はいつも自分の権威をふりかざし、乱暴で身勝手なふるまいをしていましたが、1510年頃に評判が高かったライバルの金志川豊見親を逆恨み(さかうらみ)し、酒を飲ませて酔った金志川豊見親を殺害しました。
そのことを知った尚真王の激しい怒りを買ってしまい、仲屋金盛豊見親は自殺しました。

 

参考資料:
1. 琉球聖典 おもしろさうし選釈 伊波普猷 著(1924年出版)
2. 古琉球 伊波普猷 著(1943年出版)
3. 旧記 桑江克英 著 (1939年出版)
4. 宮古島旧史 西村捨三 著 (1884年出版)
5. 民謡覚書 柳田国男 著 (1940年出版)
6. ニコライ・ネフスキー Николай Александрович Невский (fb2) 1978
7. Marija Gimbutas "The Kurgan wave #2 (c.3400-3200 BC) into Europe and the following transformation of culture" (1980)
8. 宮古島庶民史 稲村賢敷 著(1972年出版)

 
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