久松五勇士
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ご家族の皆さま:
宮古島キッズネットが、「宮古島のヒーロー」 の第一回に紹介するのが、 「久松五勇士」 の5人です。
久松五勇士は、1905年 ロシアのバルチック艦隊の通過を軍令部に知らせるために石垣島の電信局にサバニで行った宮古島の5人の若者の話です。 久松五勇士は高い航海能力と強い責任感、使命感で任務を果たした、宮古島が世界に誇るべき海の男たちです。

人を救うための善意に満ちた命がけの行動や、わが身の危険を顧りみることなく遂行した正義感あふれる行動も、時代や政治的背景により、行動を利用されたり、批判されたり、無視されたりという話は、世界の歴史には頻繁に出てきます。

これらは、歴史を見るまでもなく現代社会でも見受けられる不条理のひとつかもしれません。 久松五勇士の話も、軍事機密事項として封印され、当事者による記録や公式記録が少なかったことや、昭和初期にこの話が紹介され始めた時はその時代的背景や思惑から様々なバイアスがかけられた形でのストーリー展開が作られ、そのまま教科書にも取り上げられました。

久松五勇士の勇気ある行動は、日露戦争当時や戦前教育の中では国威発揚のための美談話として紹介されていました。 また、その後の戦後教育方針やイデオロギー論争の中では、一転してネガティブな扱いとなり、多くの場合、無視されてきました。

宮古島キッズネットは、久松五勇士の行為を戦略上の情報の価値判断としてではなく、あくまでも島の人々のため、国のために島民がなすべきと考えた事への責任遂行能力、行動力、実践力の高い人々が 1900年代はじめの宮古島にもたくさんいたということを、事実関係が判明している範囲で、脚色なしでまとめたものです。

ここでは、これまで久松五勇士がどのように扱われてきたかなどの従来評価にとらわれることなく、時代的背景なども織り交ぜ、新たな観点から5人を宮古島が誇るヒーローとして紹介していきます。 


久松五勇士の物語は、ドッガーバンク事件からはじまった

この話は、1905年(明治38年)日本とロシアの戦い、日露戦争中の出来事です。 多くの歴史物語がそうであるように、久松五勇士が活躍することにつながるいくつかの偶然があります。 その一つが、バルチック艦隊と呼ばれる、ロシア海軍の太平洋第二艦隊によって引き起こされたドッガーバンク事件です。

1904年10月15日、バルチック艦隊はロシアのバルト海沿岸の軍港リバウから日本の近海を通って、ロシア東海岸の軍港、ウラジオストックに向かうために出港しました。 アフリカ大陸西部の洋上を南下し、最南端の喜望峰(ケープタウン)経由で地球を約 3/4周する 29,000キロメートルの長い航海です。

10月21日には、当時日本と同盟関係を結んでいるイギリスに近い北海のドッガーバンク海域に入ります。 この海はイギリスの漁師たちがいつも漁をしている豊かな漁場で、この日もタラ漁をするトロール漁船などが多く集まっていました。

しかし、 バルチック艦隊にとってはどの艦船も敵地を通過するような、とても緊張した状態でした。 夜の8時すぎになって極度に緊張した航海を続けるバルチック艦隊の一つ、戦艦アリヨールに偶然近づいてきた漁船があったことから、艦船の見張りが 「日本の魚雷艇が襲撃してきた」 と勘違いし、砲弾攻撃をして漁船を撃沈させてしまいました。

バルチック艦隊
また、間違って漁船を攻撃したと分かった後も海に投げ出された漁民たちの救助活動もせずに、艦隊は立ち去ります。 上の地図はセントペテルスブルグのオーロラ博物館所蔵のバルチック艦隊の巡航コース図です。
Photo courtesy: The Cruiser Aurora Museum at St. Petersburg
10月22日早朝、傷ついた船団が母港であるハル市の港に入港すると、すぐに大がかりな被害状況の調査が行われ、結果をイギリス政府に報告しました。
冷静に考えると、わざわざこんなに離れた北ヨーロッパの北海まで日本の海軍が進出しているはずがないのですが、バルチック艦隊はこの時点ですでに指揮系統に大きな問題を抱えていました。
 

関連メモ(1):

「世界の戦艦: ヨーロッパ公式フォーラム」 のコメントにもありますが、このイギリスでの事件は、当時のバルチック艦隊の軍隊としての統率力がいかに低く、また、兵士の技術レベルや能力がどれほどひどいものであったかを象徴する事件であったと記しています。

この事件ではイギリスのトロール漁船46隻が銃弾攻撃を受け、うち1隻が沈没。 2人が死亡し、6人が負傷しました。

多くの漁船が攻撃を受けたのに犠牲者の数が少なかったのは、バルチック艦隊の機銃兵の技術があまりにも低く、中には 500発撃っても1発も当たらなかったケースや、混乱状態となり漁船だけでなく巡洋艦オーロラ (ロシア語では アブローラ)は味方の戦艦アリヨールから5発の砲撃を受けて大きな被害を出したほか、ロシア兵1人を死亡させています。


Photo courtecy: University of Hull, England
イギリスのハル大学所蔵の事件のようすを伝える絵画
このことから 「世界の戦艦: ヨーロッパ公式フォーラム」 では、バルチック艦隊の戦闘能力は恐ろしく低く、日本の海軍に一方的に敗れ去ったのも当然の結果である、としています。

 
色々な偶然が重なって、久松の5人の若者の活躍が必要になりました

この事件にイギリス政府は怒り、バルチック艦隊がその後補給のために立ち寄りそうなイギリスの同盟国や影響のある国々に連絡し、「補給をしないように」 とか、「燃料の石炭の補給を拒否したり、どうしても補給に協力しなければならない場合には、石炭の品質を落として、あまり良く燃えない石炭を供給するように」 との指示を出しました。

このため、バルチック艦隊はその後食料や燃料の補給にとても苦労し、石炭も質の悪いものしか手に入れることが出来なかったので、船のスピードが20%近くも落ちたのではないかと言われています。

また、予定した港で補給できないので他の港を探すことなどもあり、イギリスなど同盟国からバルチック艦隊の航海情報を得ていた日本の海軍も、予想外の動きをすることで、情報が集めにくくなり、フィリピン北部を通過後は本当に居場所の確認ができなくなっていました。

ここに久松五勇士が活躍するという、歴史上の 「偶然の必要性」 が生まれたのです。
 
最初にバルチック艦隊を見つけたのが沖縄の漁師、奥浜牛

バルチック艦隊がウラジオストックに入り、ロシアの極東地域の海軍力が強まることを恐れていた日本の海軍は、艦隊がウラジオストックに入港する前に打ち負かそうと考えていたので、見失ってとてもあわてました。 そこで海軍の軍艦だけでなく、沖縄や南西地域を航行している軍が契約している民間の輸送船などにも、バルチック艦隊を見かけたらすぐに連絡するように伝えました。

ところが、このバルチック艦隊を一番先に見つけたのが宮古島近海で漁をしていた沖縄本島の漁師、奥浜牛(29歳)でした。 奥浜は 5月23日に宮古島の北約 80キロメートルの沖合(北緯 25度20分、 東経125度43分付近)で漁をしていると、近くを艦隊が通過するのを目撃しました。 「これは、日本にとって大変なことになるかもしれない」 と考えた奥浜は、すぐに一番近くの港である宮古島へと急ぎました。 そして26日の朝10時頃平良の漲水港に入港し、駐在所にこのことを知らせました。 


関連メモ(2):

日本軍がバルチック艦隊の位置を最後に確認できたのは、5月19日に台湾の最南端から 200キロメートルほどフィリピン寄りのバシー海峡を通過中という情報でした。 このコースは、その前に位置確認ができたベトナム中部のカムラン湾から直線コースだったことから、日本の海軍はこの位置ではバルチック艦隊がウラジオストックに日本海経由で向かうのか、太平洋経由で向かうのかの予測をすることが出来ませんでした。 
後で分かったことは、バルチック艦隊は宮古島の南南東 150キロメートルほどの地点まで直進を続け、そこでコースを北に変え、日本海へと向かっています。 この北進コースで航行中のバルチック艦隊に遭遇したのが奥浜牛でした。

ところで、記録では奥浜がバルチック艦隊を目撃してから、平良港に到着するのにほぼ3日かかっています。 サバニで 80キロメートル進むのになぜ 3日もかかったのか、という疑問もありますが、その理由は5月中旬から下旬にかけてこの海域は梅雨前線による偏西風の影響で西風が吹きやすい状況となり、高波も発生していたためと考えられます。
また、このことは現存する明治38年5月26日、27日の天気図からもその断片が読み取れます。

ここでもうひとつ、バルチック艦隊を発見した奥浜牛についての話があります。 こちら 「関連メモ(5)」をお読み下さい。

 
選ばれた5人

駐在所の内田輔松所長は、すぐに奥浜とともに宮古島の島司(区長)の橋口軍六に報告しました。 橋口島司と役員たちは、ことの重大さがすぐにわかり、東京の海軍の最高決定機関である軍令部に伝えようとしますが、当時宮古島にはまだ電信局がありませんでした。 一番近くの電信が打てる場所は、石垣島の八重山郵便電信局です。

そこで区長と役員たちは、大急ぎでサバニで外洋の高波を越えて確実に石垣島までたどり着くことのできるすぐれた操船技術をもっている若者、サバニを長時間こぎ続けることのできる強靭な体力を持つ若者を選ぶための会議をし、そして5名を石垣島へと送ることを決めました。
そして選ばれたのが、この5人です。
       
  松原から2組の兄弟
垣花 善 (かきはな よし) 1876年生れ 29歳
垣花 清 (かきはな きよし) 1883年生れ 22歳
与那覇蒲 (よなは かま) 1880年生れ 25歳
与那覇松 (よなは まつ) 1882年生れ 23歳
  そして久貝からは、松原の与那覇蒲と同姓同名で5人の中では一番若い
与那覇蒲 (よなは かま)   1884年生れ 21歳
 
石垣島に向けて出発

電信文を石垣島に届けることは、極秘扱いとされていたので、選ばれた 5人は、5月27日の早朝鎮守で任務遂行の祈願を行い、朝8時頃橋口島司(区長)から軍令部への電文を受け取り、誰にも知られないように石垣島に向けて出発しました。 宮古島から石垣島北部の伊原間(いばるま)までは直線距離で 105キロメートルほどありますが、5人は出発から15時間後の午後11時頃に伊原間の海岸近くまできました。
石垣村まではもう一息です。 ここで一休みすることにしました。

しかし、休んでいる間に思いがけないことが起きます。 夜なので海底の状況を確認できていなかったのと、引き潮のために水深が浅くなり、船を進めることが出来なくなったのです。 船で石垣村に行くためには、満ち潮まで待たなければなりません。 満ち潮を待っている時間的なゆとりは無いと考えた5人は、船で行くのをあきらめ浅瀬を渡って伊原間に上陸します。
 

関連メモ(3):

これが 「5人上陸説」です。 久松五勇士の話はこの他にも、伊原間では2人だけが浅瀬を歩いて上陸し石垣郵便局に向かい、残り3人は満ち潮を待って、船で石垣に向かったという 「2人上陸説」 、伊原間で馬を借りて石垣村に向かったという石垣島での話。 さらに伊原間では上陸せず潮が満ちるのを待って5人でそのままサバニを漕ぎ続けて、石垣村の電信局に向かったとの説もあります。 ここでは、5人上陸説で話を進めていきます。

ところで、5人は宮古島から波の荒い先島の外洋 105キロメートルを漕ぎ続け15時間で石垣島の伊原間に到着していますので、サバニのスピードは平均 3.8ノットだったことになります。 時速にすると約7キロメートルですから、ジョギングほどの速さですが、波のうねりで左右にもまれながらこのスピードで漕ぎ続けることができたのですから、素晴らしい操船技術と体力です。

このように、ハイスピードで石垣島に渡ることができた理由の一つが、それまでは刳(く)り舟といわれた2~3人乗りの丸木舟型のサバニが主流だったのが、明治時代になると造船技術が発達し、大型で5人の漕(こ)ぎ手が乗れるはぎ舟型のサバニが開発され、沖縄でも多く製造されるようになったことがあります。 

久松五勇士による快挙も、このような5人の漕(こ)ぎ手で遠くまで行くことのできるはぎ舟が宮古島にあった事と、けっこう難しいといわれる新しい型のサバニを扱える、高い操船技術と体力をもった5人の若い漁師がいたことで可能になりました。

 
無事任務を果たした5人


伊原間から、通信施設のある石垣村までは山道を30キロメートルほど南に進まなければなりません。 5人は休む間もなく八重山郵便電信局に向け走り始めました。 当時、伊原間から石垣村までの道は起伏の大きい山道で、人や馬がなんとか通れる程度の険しい道でした。
その山道を走り抜け、八重山郵便電信局に到着したのが午前4時。 なんと、15時間サバニを漕ぎ続けた後小休止しただけで、たった4時間台で 30キロメートルを走りきったのです。 5人は、驚くべき体力の持ち主でした。

そして、5月28日 午前7時、八重山郵便電信局よりバルチック艦隊通過の電信報告が無事なされました。

しかし、せっかくの5人の活躍や勇気ある命がけの航海は、軍事上の機密扱いということで、その後長く宮古島の人々や全国に知られることはありませんでした。 宮古島に戻った後も、5人は区長との約束を固く守り決して自らは石垣島に行った目的について語ろうとはしなかった、といいます。

1920 ~ 1930年代、5人の活躍は宮古島でもうわさ話として広がり、新聞で全国に紹介されたり、国や県から表彰されたり、教科書にも載せられたりするようになりました。

また、太平洋戦争後は軍に協力した者として非難されたり、勇気ある行動を無視されたりと、残念ながら世相やイデオロギー論争に巻き込まれ、正当な評価がなされていませんでした。

宮古島を代表して石垣島にサバニで行った5人は、高い航海能力と宮古島が世界に誇るべき強い責任感、使命感で任務を果たした人たち。 宮古島のヒーローです。
久松五勇士

私たちは、宮古島に生れ、育ち、先祖に久松五勇士を持つ子孫として、これからも長く5人の勇気ある行動を語り継いでいきましょう。

 

関連メモ(4):

「遅かりし1時間」 はとてもドラマチックなストーリーだった:
久松五勇士の話が新聞を通じて国民に伝えられたり、教科書に掲載されたとき、「久松五勇士の報告は、実はほかの報告よりも1時間遅く軍令部に届いていた。」 という内容になっていました。

その時の説明によると、軍令部が確認した最初のバルチック艦隊発見の報告は、5月28日午前4時45分付けで発信した海軍と契約していた日本郵船の貨客船 「信濃丸」からの電信だったというのです。
しかし、発信時が午前 4時45分の信濃丸からの電信報告と、久松五勇士が届けた電信の軍令部での受け取り時間の比較には、さらに多くの検証が必要との歴史研究者らによる意見があります。

記録では、長崎県五島列島の西部沖合を対馬方面に向かうバルチック艦隊を信濃丸が確認したのは前日、5月27日の午前2時頃で、発見後4回、追跡状況も報告しています。

一方、久松五勇士の報告が沖縄などの通信基地経由で軍令部に着いたのは、28日の午前10時と言われていますので、これらの時間比較だけで見ていくと、信濃丸の発見から久松五勇士の電報が届くまでには、32時間の差があったことになります。

いずれにしても 「遅かりし1時間」 と、わずか1時間の差であったという設定は、物語としてよりドラマチックな筋立てにするための創作の結果であろう、との意見には説得性があります。

さらに、歴史研究者らによるもうひとつの考えとして、実は久松五勇士の電信報告は遅れておらず、バルチック艦隊発見の最初の報告だったが、当時の軍令部では民間人が第一発見者であっては軍の体面上、規律上示しがつかないので、軍部が後日 「遅かりし1時間」 とのストーリーを作り、新聞社に流したのではないか?という説もあります。 
こちらも時代的背景を考えると、ありそうな話です。


久松五勇士 宮古島


関連メモ(5)

1941年に出版された、島袋源一郎の 『琉球百話』 では、奥浜牛がバルチック艦隊に遭遇した時の様子について以下のように書いています。

那覇港を出発し、宮古島に運ぶ物資を積んでいた山原(やんばる)船(船頭 奥濱牛)は 5月23日、ものすごい黒煙を上げて北上中の軍艦の群れに出合います。 「これはバルチック艦隊だ」と気付いた時には、すでに2隻の軍艦が奥濱の船に向かって近づいてきます。
「捕虜にされるかもしれない」 と乗組員たちも心配しましたが、2隻は近寄って監視した後声をかけることもなくそのまま立ち去りました。
奥濱牛は、「船が中国のジャンク船と同じような形で帆の立て方も同じ山原船だったので、バルチック艦隊は中国の船と思って拿捕しなかったのだと思う」 と語っています。

このような経緯もあって、奥濱牛は25日の朝宮古島の漲水港(今の平良港)に入港しています。 この本で注目すべき点があります。

1. 平良港へ入港したのが、26日ではなく25日となっていること。
2. 五勇士は、5月26日の早朝宮古島から石垣島に向けて出発した
3. 石垣島北東部の海岸を通過中浅瀬になり、サバニを進める事が出来なかったので上陸せず、潮の満ちるのを待って漕ぎ始め27日の早朝に石垣村の郵便電信局に到着した。

このように他の記述と異なりますが、宮古島キッズネットでは検証の余地が残る記述には推測を加えることなく、全て記載されたままを掲載しています。 久松五勇士に関し、今後も新たな資料が見つかり次第追加・更新していきます。

 
参考資料:
1. Stories from the Sea - The Russian Outrage, HMAP Project, University of Hull, England
2. The Cruiser Aurora, aurora.org, Russia
3. The Cruiser Aurora Museum, St Petersburg, Russia
4. 国土地理院 ウォッちず
5. 国立国会図書館 レファレンス事例詳細
6. 『南島史学 第3号』 南島史学会編 1973 「日露戦役と沖縄ー久松五勇士とその足跡」 牧野清著
7. 『日本海海戦秘話 敵艦見ゆ 沖縄五勇士』 稲垣国三郎著 盛運堂 1935
8. 『琉球百話』 島袋源一郎著 琉球史料研究会 1941 「バルチック艦隊を通報した宮古五勇士」
9.
The Dogger Bank Case (Great Britain v. Russia), (1908) 2 Am. J. Int’l L. 931-936 (I.C.I. Report of 26 Feb. 1905)
10. Dogger Bank Incident, Oxford University Press, England
11. World Naval Ships Forums, The Dogger Bank Incidents, United Kingdom (England)
12. History of Hull, Hull Local Studies Library, Hull, UK
 
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