人頭税 宮古島
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宮古島のヒーロー(2)
1637年から1903年までの266年間、人頭税を払い続けた島の人々全員
 
宮古島には、ものすごい数のヒーローがいます。
人頭税(“じんとうぜい” あるいは “にんとうぜい”)という、とても厳しい税金制度の時代に自分の心を奮い立たせ
今の宮古島の私たちに命をつないでくれた、17世紀から20世紀はじめの宮古島に生きた私たちの先祖が今回のヒーローです。

 
人頭税って何?
人頭税は、その人の収入や仕事の内容、年齢、男女に関係なく、とにかく 「一人あたりいくら」 と決められた金額を税金として支払わなくてはいけないという、とても厳しい税金システムです。
この人頭税という税金の取り方は、宮古島や八重山だけでなく当時の日本や外国でも行われていましたが、琉球王朝が宮古島や八重山など先島で行った税のとりたては、とくに厳しいものでした。
 
どうして人頭税が始まったの?
人頭税は、琉球王朝が支配が始まった薩摩藩へ税を収めるために1637年から始めた制度です。 琉球王府は、薩摩藩への負担分をそれまでも差別的な扱いをしていた宮古島や八重山群島など先島の住民から取り立てることに決めました。
しかも、この時の「正頭(しょうず)」 とよばれる人頭税制度は、家族が生活するための収入がなくても、自分たちの食べ物や時には家族の命を犠牲にしてでも支払わなければならず、島の人々は全てを人頭税の支払いのために生きるという奴隷のような人生でした。
 
なぜそんなに厳しい税になってしまったのでしょうか?
1. 第一の理由は、干ばつや台風被害によって収穫物や生産量が少ない年でも琉球王朝の税金収入の総額が減らないように、人頭税方式で島や地域からの収入額を一定化させたことにあります。
そのため、農家の人々は作物の収穫が少ない年でも、決められた金額分や穀物量をほかのもので補わなければなりませんでした。
   
2. 人頭税は15歳から50歳までの男女全員が対象で、その地域での社会的地位によって5~7つの身分に分けられ、それぞれ税として収める物が決められていました。 一般の農民は男女共に4段に分けられた他、実際にはもっと細かく身分ごとの税負担が決められていました。
また身分の高い人たちは自分では全く支払わなかったり、支払いの多くを身分の低い人々に押し付けていました。
それだけでなく、同じ島民でありながら身分の高い人たちは自分たちの資産を増やすために勝手に農家の人たちから余分に人頭税に上乗せをして取り立てたりしたので、身分の低い人々は寝る間もなく働き続けなければならなかったそうです。
 
身分 年齢
士族 正男 15歳 ~ 50歳
士族 正女 15歳 ~ 50歳
平民 上男女 21歳 ~ 40歳
平民 中男女 41歳 ~ 45歳
平民 下男女 46歳 ~ 50歳
平民 下下男女 15歳 ~ 20歳
 
人頭税時代に宮古島の平民は、以下の5つに分けられていました。
 

1.

キンミ 平民の頭で、上官の命令を受けて平民を監督する
2. ズーサズ 村事務所で下級平民の数や租税の徴収状態を管理する、経理のような役割
3. ツフ 村の反織物を予定通りに織らせて、上納する役割
4. 布ツフ 織物を織る女性の監督役で、予定通りに織りものが進んでいることを確認する
5. サズ または ウプズア 最下級の平民で、農業の他キンミの命令で村のすべての雑用を行う
 
    
 
ヤーキ算
人頭税 宮古島キッズネット
宮古島の人頭税の管理に使われた結縄
 

宮古島では人頭税の管理を、当時沖縄各地で使われていた結び縄で記録しました。 結び方は方言と同じように各地でことなっていて、左右の写真は、実際に宮古島でズーサズが用いたもののスケッチです。

まず、左のヤーキ算は人頭税のため家ごとの納税者の状況を知るためと、支払いが終わっているのか、まだなのかを記録したものです。
(い)、(ろ)、(は)、(に)は村役場から近い順にある家番号のようなものです。

(い)の家には縄が3本出ており、この家では3人が納税義務があるということです。 また、長いのが男性で短めの縄が女性を示していて、女性のうちのひとつの縄が結ばれているのは、この女性が納税を終わったという意味です。
なお、(ほ)の輪になっているのが道路を表していて、(へ)の家は道路を渡った先の家ということになります。 ですから、ヤーキ算の結縄はその時代の地図の役割もありました。

右のトリシメ算は、村の租税の総額を示していて、(イ)は石で10石の単位、また結んだ縄は50石です。(ロ)は石、(ハ)は斗、(ニ)は升、(ホ)は合、(ヘ)は勺、(ト)は才というように、昔の数量の単位を表しています。
この村の租税額の合計は、93石2斗4升7合8勺7才だったことが分かります。

 
トリシメ算
人頭税 宮古島キッズネット
この写真は、実際に宮古島や八重山で使われていた結繩の写真です。 結び目や輪をどのように作って記録していたのかが、よくわかります。
琉球古来の数学 矢袋喜一 著 (1915年

命がけの抗議をした先島の農民たち
すざまじい税金の取り立てに我慢が出来ない農民たちは、石垣島や、多良間島、宮古島で抗議の集会を行いました。
しかし、抗議をしても地元の役人や琉球王朝からの役人はまったく聞き入れないどころか、牢屋に入れたり激しい拷問をしました。 
そこで直接那覇の王朝に訴えようという試みも各地からなされましたが、失敗して投獄されたり、仮に那覇に到着できても処刑されたりしました。
このような王朝に対する抗議の時も、地元の身分の高い人々や役人は、自分たちが利益を得ている人頭税を止めさせないために抗議集会や那覇行きを力ずくで妨害しました。
 
宮古島や八重山の人は、なぜ明治時代になっても36年間も人頭税を収め続けなければならなかったのでしょうか?
1879年、廃藩置県(はいはんちけん)という制度により、宮古島や石垣島が沖縄県となっても琉球王朝は、人頭税を取り続けました。
廃藩置県の時、琉球王府は 「琉球は貧しいところだから、国に治める税金を特別に低くしてほしい」と訴えたので、明治政府はこの訴えを聞き入れて、沖縄県民からの税金を大幅に減額しました。
ところが、このように琉球王府は税の負担が軽くなったにもかかわらず、先島からの厳しい人頭税の取り立てを続けたのです。
また、宮古島など先島の身分の高い人や役人も、相変わらず農民から自分たちの分を取り続けることをやめなかったようです。
 
なぜ日本政府はこのような琉球王府の人頭税を止めさせなかったのでしょうか?

その理由は、明治政府という新しい社会機構を一度に全国に徹底させるのに時間がかかったことと、それまでの中国と沖縄との関わり合いから、明治政府は沖縄の扱いに迷って、旧慣温存(きゅうかんおんぞん)策といわれる、「とりあえず、今までのやり方を続けて良い」 という態度をとったためです。

 
人頭税はいつ、どのようにして廃止されましたか?

それまでの266年の間も、先島の人々は色々な形で抗議のための集会や琉球王府への直接抗議を行うために命がけの行動をしていました。
それらの抗議運動も、1890年代にやっと時代的背景の変化や人材、政治的な条件がそろい、一気に廃止を実現させることになります。
1893年、真珠養殖で宮古島をよく訪れていた中村十作という新潟出身の実業家や、沖縄から製糖技術の指導のために宮古島に来ていた城間正安などの協力を得ることで、宮古島や沖縄本島で多くの妨害を受けながらも宮古島の西里蒲(ニシザト・カマ 38歳)と平良真牛(タイラ・モーシ 35歳)の2人の青年は、東京で国会請願書 「沖縄県宮古島々費軽減および島政改革請願書」 を届けることができ、ついに10年後の1903年帝国議会は人頭税廃止を決めました。

 
 

沖縄県宮古島 島費軽減及び島政改革請願書 (宮古島キッズネットによる現代語表記)

   

沖縄県宮古島 島費軽減及び島政改革請願書

   請 願

沖縄県宮古島の平民西里蒲他一名は、憲法の条項に従って、ここに星亨衆議院議長に請願致します。

私たちは沖縄県宮古島の住民で、今日まで人頭税を支払ってきました。 人頭税は支払い分を現物で納め、平均一人当たりの納税額は年額2円以上(現在の金額で約7,600円)になります。 内地(日本の本土)と違い、宮古島での生活は貧しくとても大きな負担となっています。

更に私たちの生活を困難にしているのが、男女ともに一人につき粟(あわ)何俵を納めるべしという決まりです。 これは各部落によって事情は違いますが、少なくとも一家で5~6俵(300 ~ 360kg) の納付が義務付けられ、家族の多い家では16~17俵(960 ~ 1020kg) を納めることになっています。 しかし、納付義務量を納めることが出来ない家は、粟の代わりに馬を売ったり、豚を売ったりして不足分の埋め合わせをしています。

また、番所からは 「この家では、金額にして幾らいくらの値の麻糸を納付しなさい」 とか、「お前の家からは、誰々が番所に通い織り機を使って、紺細上布や白上布、白木綿布を織るように」、との命令を受けます。 麻糸の納付を命じられた家では、原料を那覇の商人から購入しなければならず、原料の値上がりで、納税負担がとても大きくなっています。

宮古島から沖縄県庁に納めるべき毎年の納税額は、定額で粟の数量にして 5,408石5斗9升6合9勺8寸(約812トン)となっており、もともと収穫量が十分でなく、そのすべてを粟で納付するのは難しいために不足分を上布をはじめ他の布類で納めています。
今年8月の宮古島の相場で計算すると、粟の総量は30,071円79銭9厘3毛(現在の金額でおよそ 1億1,430万円)になり、粟と織物を合わせた納税額の合計は、37,167円81銭3厘(現在の金額で約 1億4,124万円)となります。

また、沖縄本島の士族で組織される役所(倉番所)の経費と小学校、病院の年間費用31,745円10銭6厘(1億631万円)も税金に合わせて納付しなければならないので、その総額は6万9,112円94銭9厘 (2億6,263万円)となっています。

宮古島の島民35,338人が負担しているのは、県庁より派遣された派出官・巡査 36人、島内士族の倉元役人 131人、 在番所役人 144人、 見習い書記 34人、 見習い農務書記 16人、 貢賦所職員 15人の合計 373人になります。 また、小使いも380人いますが、倉元や番所に毎日出勤するものは全体の5分の1(20%)程度で、これらの年俸も、事務費とは別に支払わされます。

倉元の年俸は、280円(1,064,000円)、首里大屋子が 195円(741,000円)、 大目差が150円 (570,000円)、 脇目差が113円(430,000円)、与人 150円(570,000円)を、それぞれ受け取っています。

士族と平民の違いとはいえ、同じ島に暮していながら士族、役人は悠々と毎日を過ごし有り余る食糧と歌や舞などを楽しむ生活をつづけています。 一方で平民は、役人の報酬を支払うために毎日やっとの思いで働き続け、寝る時も食べる時も心穏やかな時は無く、余分に収穫できたわずかのものさえ税金の足しに差し出さなければならないのです。
平民は空腹をサツマイモで何とか満たしていますが、半数以上が毎年収穫する粟の味さえ知りません。 味噌がある家庭は4軒に1軒くらいです。
着るものといえば、粗末な芭蕉布1枚、冬は破れた袷(あわせ・裏地の付いた着物)1枚という状態で、しかも袷は一家に1枚しかなく、外出する家族が交代で着て出かけるありさまです。

宮古島の農家の住まいは、内地でいう樵(きこり)小屋のようなもので、生活の悲惨さを最もよく表している貧弱さです。

これらの非常に困難な生活状況は、全て島民が負担している重い税金のためです。 重税に耐え切れなくなった島民の中には、逃亡して八重山にのがれ、山中深く隠れ住む者もいます。

このような重税を改めて頂きたく、数年前より島の役所に出頭し、現在の人頭税を廃止して本土と同じように土地に対して課せられる地租税に改めて欲しいこと、 現物支給による納税方法を改め、貨幣によって納税することなどのお願いをしましたが、まったく取り上げて頂けませんでした。 今も妻子には飢餓が迫っています。 一家はほとんど離散してしまいました。

このような宮古島の不幸な状況を衆議院議員の皆さまに知って頂き、人頭税制度の改革に関する審議をお願い致したく、ここに請願書と事実及び請願に至る理由書を添えて懇願致します。

明治26年(1893)12月

沖縄県宮古島福里村163番地
平民農 西里 蒲 (38歳)

沖縄県宮古島保良村25番地
平民農 平良 真牛 (35歳)

衆議院議長 星 亨 殿

 
 
まとめ:

人頭税を廃止、あるいは人々の生活を守れる制度に改正してほしいとの訴えは、八重山、多良間島、宮古島でも何度もおきています。
このページでは、それらのケースごとの説明や、その時々に立ち上がった人々について詳しく説明する方式でなく、立ち上がった人々を命がけでサポートし、自分の家族や子孫たちを奴隷的な生活から抜け出させたいと願い、心奮い立たせて必死に生きてくれた全員を 「宮古島のヒーロー」 としてスポットを当て、紹介しています。

266年間、人頭税という過酷な税金を収め、子孫の生活が少しでも良くなるようにと祈り、この時代を身を削りながら生きて今の私たちに命をつないでくれた 「名も知られることもなかった宮古島のすべての人々」 に最大の敬意と感謝を込めて、将来も長く私たちの心に留めていきたいと思います。

人頭税に関しての資料はたくさんありますので、図書館などで調べて下さい。


 

参考資料:
1. 沖縄県旧慣租税制度 1893年(明治26年 監修)
2. 宮古島旧史 西村捨三 著 1884年
3. 琉球語の数詞について 伊波普猷 著(1915年)
4. 琉球古来の数学 矢袋喜一 著 (1915年)
5. 琉球聖典 おもしろさうし選釈 伊波普猷 著(1924年)
6. 旧記 桑江克英 著 (1939年)
7. 沖縄写真帳 坂口総一郎 著 (1925年)
8. 日本国勢調査記念録 宮崎県・沖縄県 (日本国勢調査記念出版協会 1923年)
9. Encyclopedia of China: History and Culture, Dorothy Perkins (1999)
10. 宮古島庶民史 稲村賢敷 著 (1972年)

 
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