写真の著作権に関し:
「宮古島写真館」で紹介する写真は、海外発行物を含め多くが著作権作品であり、転用・転載が出来ません。
 
写真は1918年頃の漲水港。 写真に傷みがありますが、港の西には多くの住宅が確認出来ます。 当時の宮古島の人口は約53,000人です。
この頃、宮古で初の新聞社ができ、宮古電灯株式会社が設立され一部に電灯がつきました。
宮古の研究 比嘉重徳 大正7年(1918年)発行
 
1920〜1930年代の平良の中心街
平良町誌 昭和9年(1934年)発行
 
1930年代(昭和10年頃)の宮古島漲水港を海側から撮った写真。 想像以上にモダンな感じの港です。
平良町誌 昭和9年(1934年)発行
 
1931年(昭和6年)8月9日、風速60mの台風により学校11校、住宅 3,717戸が壊れましたが、
この写真はその2年後1933年、復興した平良町内の住宅地です。
平良町誌 昭和9年(1934年)発行
 
宮古島や八重山で人頭税の管理に使われていた結繩(ゆいなわ)の写真です。
結繩についての詳しい説明は、こちらでお読みください。
琉球古来の数学 矢袋喜一 著 大正4年(1915年)発行
 
ここは城辺の山川(やまがー)ウプカーの1957年の写真です。 長間ウプカーとしても知られるこの湧き水の井戸には当時このような
ポンプ小屋が作られていました。 この井戸からは、農業用水のほかに上水道用水として城辺だけでなく、平良市の一部にも
水道管がひかれていたという記録があります。 このポンプ小屋の下に広がるのは、古くから宮古島の水田地帯と言われていた
長間田(ナガマダー)で、この写真が撮影された時代でも稲作が盛んにおこなわれていました。
Photo courtesy: Military Geology of the Miyako Archipelago, Ryukyu-Retto 1960
 
大浦の南西部に広がる水田地帯。 1956年当時、宮古島では最も広い水田の耕作面積を誇っていました。
Photo courtesy: Military Geology of the Miyako Archipelago, Ryukyu-Retto 1960
 
海岸近くの狭い谷間に段々畑のように作られた水田。 1956に撮影されたこの写真の説明には、池間の風景とあります。
Photo courtesy: Military Geology of the Miyako Archipelago, Ryukyu-Retto 1960
 
1956年の島尻集落。 昔ながらの住居の間に、新しい住宅が建ち始めています。
Photo courtesy: Military Geology of the Miyako Archipelago, Ryukyu-Retto 1960
 
1956年(昭和31年)8月15日に宮古島を襲った台風第9号により倒壊した平良市内の小学校の校舎。
写真右上は、気象庁のデータベースにある昭和31年の台風9号のコースと通過日です。

Photo courtesy: Military Geology of the Miyako Archipelago, Ryukyu-Retto 1960
 
1950年代から1960年代にかけての狩俣集落での生活の様子です。
 
1963年から1982年にかけての漁港及び干拓工事が始まる前、1956年の池間島の航空写真です。
Photo courtesy: Military Geology of the Miyako Archipelago, Ryukyu-Retto 1960
 
 
 
 
 
 



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